駅前の横断歩道の信号に阻まれて、今日も終電に間に合わなかった。
最終電車の離れてゆく走行音を耳にした途端、余計に疲労感が襲ってくる。
莉菜は仕方なしに、駅構内のタクシー乗り場で一台拾って雪崩れるようにして乗り込んだ。座席シートの匂いにやっと家路だと思うと一気に睡魔が襲ってくる。眠ってはダメだ、きちんと行き先を伝えなければと運転手に告げようとすると、


「お客さん?どこまで行きましょうか?」


と先に声を掛けられた。莉菜は自宅の町名と目印になりそうなコンビニの名前を言う。
さすがと言うべきか、


「あぁ、あの動物園前の通りですね。分かりましたー。着いたら起こしますからどうぞ、お休みになってください」


と言われ、莉菜はこくこくと船をこぎ始めた。
無事にマンションまで送り届けてくれた運転手に運賃を払って礼をいい、重く疲れた体を引きずるようにして玄関ポーチに入り、部屋の番号を押した。するとチャイム音の後に「はいよ」と元親の声がする。


「ただいま。開けてー」
「おう!今日も遅かったな」


インターホンの受話器が降りると同時に自動ドアが開錠された。
莉菜はエレベーターから降りて自宅玄関をくぐった。玄関にはいつも花瓶に花が生けてある。それもこれも、最近は莉菜よりも帰りが早い元親が色々な花を買ってきて、疲れた時に一番最初に目に入るものが花だとほっとするだろう。と、生けてくれるのだ。つい昨日まではカスミソウにガーベラだったが、少し枯れてきていたのもあってか、今日はピンクの薔薇がそれに変わっている。交代した花に少し微笑んで部屋に入った。
リビングに入るとジャケットとバッグをラグの上に放り投げ、そのままソファへパタリと突っ伏した。


「お帰り。大分疲れてんなー」


キッチンに立っている元親は風呂から上がったばかりなのか少し髪が湿っていて、タオルを首にひっかけていた。こぽこぽと湯を注ぐ音が聞こえたかと思うと、すぐさまカモミールの匂いが部屋に立ち込める。


「あー。もう私、無理だ。ダメだ…もうやだ、仕事辞めたい」


うつ伏せになったままの莉菜は目の前のクッションを引き寄せて顔を埋めた。
家にいる時くらい仕事の事は忘れたいとぎゅっと目を瞑ってみるも、瞼の裏には染み出るようにして、莉菜が現在担当しているイベント企画の工程表が歴史年表のようにゆっくりと左から右へ流れてゆく。
自動車メーカーが開発した二足歩行ロボットの子供向けイベントを担当している莉菜は、一緒に企画を担当している上司が糖尿病で緊急入院してしまい、挙句の果てにメーカー側の広報が莉菜に仕事を一任してきたのだ。企業からの信頼は嬉しく、またやりがいもあるものだが、上司の入院という予想外の出来事に、莉菜はてんてこ舞いだった。
それに加えて、つい先日イベント開催場所が変更になったとメーカーからの知らせを受け、折込チラシの作成や設営搬入経路などの変更を余儀なくされ、また始めから計画を練り直すと言う二度手間を強いられている。お陰で、設営業者から文句や嫌味を散々言われ、メーカー側からも何とか急ぎでよろしくと頼まれて板ばさみ状態になってしまっている。
とにかく、今はチラシの発注が間に合いそうになく、莉菜は片っ端からすぐに折込を入れてくれる印刷会社を探しているのだが、紙面レイアウトも地図やイベントスケジュールもまた考え直さねばならず、ここのところ終電に間に合うか間に合わないかギリギリの時間まで残業しているのだった。

元親は、マグカップに入れたカモミールティーを二人分テーブルに置いて、ソファの空いている場所にちょこんと腰掛けた。莉菜の頭の部分がクッションと一緒に少しだけ沈む。


「莉菜、風呂沸いてんぞ。さっさと入ってこい」


頭上から声がかかり、元親は莉菜の頭に手を置いてゆっくりと髪を梳く。「うん」と返事をしつつも撫でられる心地よさに益々睡魔が襲ってくる。
何度目かの元親の「ほら」にアザラシのようにしてやっと体を起こした莉菜は、見上げた位置にある元親の顔を覗くと、やけににやにやと笑みを浮かべていた。こういう時の元親は何かいやらしいことを考えているのは大体想像がつく。ここ2年の同棲生活は元親がいかに単純で分かりやすいかと言うのを莉菜は再認識したのだ。
元親は頭を撫でていた手を滑らせて首筋まで持っていく。莉菜もそれを真似る様に元親の頬に右手を添える。そしてわざと艶っぽい声を出して元親に尋ねた。


「元親はもう、お風呂入ったんでしょう」

「莉菜は明日休みなんだろ?」

「休みだけど、仕事持って帰ってきたから明日も仕事ある日と一緒のスケジュールです!」


と、莉菜はパシッと左手で元親の手を叩いて、添えた右手で元親の頬を思いっきりぎゅっと摘んだ。


「いってぇ!何すんだよ莉菜!」

「疲れてるから、さっさとお風呂入りまーっす!」


莉菜はカモミールティーを一気に飲み干して、海に飛び込むアザラシのような速さでソファから離れて寝室に向かった。元親は頬をさすりながら、「ちょっとぐらい・・・」とか、「お茶で上手く行きそうだったのに・・・」とかぶつぶつと独り言を言いつつ飲み終わったマグカップをいそいそと片付け始めた。


寝室には元親と莉菜の二人分のチェスト、それからクローゼットに、キングサイズのベッドが置いてある。寝室はほぼこのベッドで占められているといっても過言ではない。ダブルでいいと言った莉菜にこれだけは譲れんと、元親が押し切った末の結果だった。しかし、今ではこのサイズでよかったと思う。
元親の占領する範囲は莉菜の想像以上だったからだ。
着替えを済まし、脱いだストッキングを拾おうと屈み、床に手を伸ばした。すると、ふと視界に入ったのは、玄関と同じ薔薇の花びらだった。二片静かに落ちている。寝室を見渡すが、薔薇はどこにも生けられていない。不思議に思いつつも莉菜は捨てるのは勿体無いなと思い、拾ってチェストの上に置いて浴室へと向かった。
疲れた体をのっそりと廊下を歩かせていると、何故かまた一片薔薇の花びらが落ちていた。寝室にも落ちていたのと同じ薔薇の花びらは、玄関に飾ってあったものと同じだろう。濃いピンク色で厚みもあってふっくらとしている。またこんなところに・・・と首を傾げつつも、莉菜は洗面所の棚にそっと置いて、裸になると浴室の扉をガラリと開けた。
湯気で白くなった浴室は、扉が開くと同時に視界が開けてくる。湯船に目をやった莉菜は、目の前に飛び込んできたピンク色の浴室に薔薇が咲き誇ったかのようなその光景に今までの眠気と、仕事の疲労感は一気に飛んで、思わず「わぁ!!」と歓喜の声を上げていた。
湯船にこんもりと盛り上がったもこもことした泡と、それに混じって漂う大量のピンク色の薔薇の花びら、そして端々に燈されたアロマキャンドルからはうっすらと優しい薔薇の香りが湯気とともにたちこめていた。
幻想的な光景と、上品な香りにうっとりとしつつも、寝室と廊下に落ちていた薔薇の花びらの謎が解けた莉菜は、「元親ぁ!」と愛しい人を呼ぶ。
莉菜の声にリビングの方では元親が「おう!」と答え満面の笑みで浴室にやって来る。慌ててバスタオルを巻きつけた莉菜は興奮しきりだ。


「こ、これ!何!すごい!何か宮殿のお姫様が入るお風呂みたい!」

「ははっ、そうだろう!」


そう言って元親はまた莉菜の頭に大きな手を乗せた。


「あんまり、根詰めんなよ。たまには休憩しろ、休憩」


元親なりに、仕事が忙しい莉菜のことを心配しているのだ。その為の玄関の花であるし、遅くまで起きて莉菜の帰宅を待ってくれている。そして、時にこんな大胆なことをして、莉菜をいつも驚かせる。
莉菜はここ二週間の辛い仕事内容に弱音も吐かずやっていたのだが、ふと張っていた何かがゆっくりと緩んで何故だか目頭が熱くなり、それを隠そうと元親の胸に飛び込んだ。


「一人で全部やろうとすんな。仕事持って帰ってきてんだろ?手伝ってやるから」


莉菜は、うんうんと声を出さずにただただ元親の胸で頷いていた。すると、元親は莉菜の耳元まで顔を近づけて小さな声で囁く。


「なぁ、莉菜、だから…」


耳が酷く熱くなった莉菜は慌てて元親から離れて、二歩後ずさった。


「や、やっぱり明日は仕事手伝わなくていい!!!」