九、解けた結び
昨晩からの雪がしんしんと部屋部屋の戸を堅く閉ざした早朝、いつものように政宗の朝餉を用意すべく厨に入ると女中たちは額を突き合わせて世間話をしていた。かまどに掛けた鍋からはぐらぐらと湯が沸え、ふわりと上がる白い湯気に手を当て暖を取っている。初穂が入ってきたことに気がつくと、おはようございますと笑顔で挨拶を返し、今までの会話は無かったかのように振る舞って皆即座に持ち場に戻った。何かあったのか、ぎこちなく台所仕事に取り掛かる女中の一人に声を掛けてみる。彼女はたすきを掛け直すと、周りを気にしながら初穂に顔を寄せた。
「実は近々、義姫様のご提案で政宗様とお食事をご一緒されるそうなんです。城はその話題で持ちきりで…」
まさに青天の霹靂とはこのことだった。政宗親子の摩擦は城の者には周知の事実であり、故に同じ座敷で同じものを口にし、同じ酒を飲む。それだけで伊達家家臣たちにとっては一大事なのである。なぜそのような経緯になったのか聞けば、義姫が近々出家するのでその前に親子水入らず食事を…とのことらしい。主人亡き今仏門に入ることは何ら不思議なことではないが、あの頭のきれる凛とした義姫の尼姿はどうにも想像し難いのが正直なところだ。
さぞかしその日の給仕に選ばれる女中は気を使うことだろう。それで皆、来る日に己に声がかかるのではないかと落ち着かないのである。茶会に呼ばれた時ですら、義姫の鋭い眼差しを受けるたびに薄氷の上を歩くほど気が休まらない心地であったのに、緊張張り詰める中配膳するとは想像しただけで一挙手一投足を評される気がして息が詰まりそうだった。
政宗も今回ばかりは断るわけにはいかなかったのだろう。初穂から義姫の香の匂いがするだけで着物を着替えさせるほど嫌悪しているが、実母の決断に政宗も情を見せたのだと思った。初穂がそう思案している間に、他の女中たちはてきぱきと膳を整え東や客間へ朝餉を持っていきはじめた。初穂も前掛けを翻し政宗の部屋へと向かった。
廊下から声を掛けると政宗は「よう」といつもと変わらない様子で応えた。政宗の朝は沢山の書状に目を通すことから始まる。初穂は火鉢の上にかけていた鉄瓶を新しいものに取り替え、白湯を湯呑に注いで膳に乗せた。文を読む政宗の様子は普段と変わらない。筆に乗る相手方の表裏を見極めるようにして文字を追っている。初穂の視線に気づいた政宗は文の束を脇へ押しやって手を合わせる。箸を取りしばらくすると「もうアンタの耳にも入ったか」と問われ初穂ははいと頷いた。
「五日後だと。アンタも一緒どうだ?」
突拍子もないことを言うものである。初穂はただの政宗付きの女中だ。同席の理由が全く無い。慌てると政宗は飲み干した味噌汁の椀を置いた。
「嫁になるんだ。いいだろ別に」
「あの…」
「聞くもんでもねえな。適当に着物見繕ってやっから準備しとけ、忘れんな五日後だぞ」
初穂の答えなどお構いなしだ。政宗は朝食を平らげると満足げに一息ついて、今度は箸に変わって煙管を手に取り火を移した。紫煙を吐くと眉間を寄せ「ただな…」と煙の中に呟いた。
「いかがなさいましたか?」
政宗は肘掛けに体を投げ、片付けの手を止めた初穂を眺めている。優しげな眼差しは何か含みをもたせるようで首を傾げると、政宗は「なんでもねえ」と呟き、おもむろに立ち上がり初穂の脇にしゃがんだ。
「今日の仕事は?」
「具足のほころびを繕おうかと…」
「そうか。なぁ…、今晩一杯付き合えよ。部屋に来い」
政宗は初穂に顔を寄せ部屋の外へ聞こえぬように低く囁いた。初穂の頭をぽんと叩くとさっさと部屋を出て道場へ向かって行った。澄んだ空気の時分からもう晩の約束を取り付けられてしまう。先程の疑問はいつのまにやら頬の熱に溶け薄れていた。初穂は弾く鼓動を抑え膳を下げた。
遠い陽が高々と登りきった頃、初穂は政宗に頼まれていた武具の繕いも全て終えていた。他の仕事を探そうと自身の部屋の前に差し掛かった時、ゆえの部屋がしばらく締め切ったままであるのを思い出した。お節介だと思いつつも初穂は襷をきゅっと締め、桶に、はたきに、端切れと桶を持ってゆえの部屋へ戻った。ゆっくり戸を引くと籠もっていた気が外へ流れるような感じがした。人の出入りが無いだけで畳の上はうっすらと埃っぽい。ゆえの部屋は相変わらず物が少ない。米沢に来てから随分経つが、城下へ出かけても買ってくるのは初穂への土産、それも団子とかまんじゅうとか腹に収まってしまうものばかりで自分のものを買う様子はなかった。
贈った綿入れは気に入って貰えただろうか、初穂はそんな事を考えながら畳や棚のほこりをはたきで落とし始めた。床の間横の違い棚に腕を伸ばしたとき、ふと足元へ視線が移った。地袋の戸先がわずかに開いている。その隙間からは、銀色の“なにか”が、覗いていた。好奇心はあったが、それが何かなど詮索するのは意地の悪いことだ。初穂はそのまま戸を閉めようとしたが、その銀色に見覚えがあり霞のかかる記憶を辿った。
平たい円の太い縁の中に花の装飾が施された平打簪 ──
小次郎に半ば無理やり餅を振る舞われたあの日、部屋に落ちていたあの簪だった。
隙間から見えている姿かたちは全く同じ装飾である。息を呑み瞬時に冷水を浴びた気分になった。なぜ、小次郎に手渡したはずの簪がゆえの部屋にあるのか。確かに小次郎は侍女か女中の誰かが落としたのかもしれないと言っていたが、ここ数日一連の出来事を思い返せば、目に見えない糸が繋がってくる様に思えてならない。初穂は地袋の戸を閉めると掃除を切り上げて部屋を出た。
じきに八つ時を迎える頃だった。政務をこなす政宗も休憩を取る。初穂はざわつく胸を落ち着かせて厨へ向かった。濡れ縁を行きながら初穂はよくよく思い出し考えていた。簪のこともそうだが小次郎に自室へ招かれた時残されていた湯呑も、いつかの朝東の辺りで聞いた嬌声も…、もしかしたらとの考えが過る。だが実際にその場でゆえを見たわけではない。証拠は何もない。
落ち着かず悶々とする気持ちを抱え厨の戸口に立った。簪とゆえのことで頭が一杯になっていたからか、厨の人の気配に気づくのが遅れた。中から鍋の木蓋をかたんかたんと大きく開け閉めする音と、棚を漁ったり土間の上にいつも置いてある籠を引きずったりする音が聞こえている。何となく女中とは別の気配を感じた初穂は入るのを躊躇した。女中が当たり前に仕事をしているなら、こんなにがさつで何かを探している様な物音は立てない。皆どこに何があるか、ある程度把握しているからだ。女中以外の誰かが中にいるのか、あまりにも腹を空かせた家臣なのか、物盗りか。初穂は恐る恐る中を覗いた。ところが驚いたことにそこに居たのは成実だった。気づいた彼は戸口に立つ初穂に気づくと、慌てて羽織の襟を正した。
「や、やあ、初穂ちゃん!」
「成実様…?何か御用でしたか…。小腹が空いているのでしたら…」
「いやいや!!…あーっと、そ、そう!ちょっと小腹空いちゃって、棚探ししちゃった、ごめん!」
「今から草餅を作りますが、成実様もお召し上がりになられますか」
「草餅!?いいねえ、おれ大好物なんだ!ありがとう!じゃあ書類溜まってるからもう行くよ!」
成実は初穂を正面に見据え、決して背を見せずに後ずさりで厨の戸口へ向かう。何か後ろ手に持っているようでちらと覗いたそれは、よく餡をこしらえたり、豆を煮るのに使う中型の鉄鍋だった。
「成実様?あの、そちらのお鍋は…」
「あ、これちょっと借りていい?実は馬の体調が悪くて薬草煎じててさ。ちょうどいい大きさの鍋を探してたんだよね!」
「そういうことでしたら、どうぞお持ちください」
成実は礼を言うと足早に立ち去った。少々焦り気味だったのは馬の心配からだろうか。いつもと様子の違う成実に少しの違和感を覚えながらも初穂は八つ時の草餅を作り始めた。
・
一通り本日の執務に目処が立った政宗は初穂が菓子を持ってくるのを今か今かと待っていた。板張りが軋む音がして顔を上げたが、足音は腹心のものである。部屋に入る小十郎は、眉間に皺を寄せて険しい顔をしていた。問題を抱えてやってきたのはひと目でわかった。政宗が冗談交じりに吽形が来たなとこぼすと小十郎はため息混じりに「例の懇談のことで少々…」と口を開いた。
「段取りの話なら、任せたはずだ。つーか、お前で事足りるだろう」
「それがそうも行きません…」
義姫との食事の段取りは小十郎と、義姫の方からは小次郎が名代となって準備を勧めていた。ところが義姫は、当日の給仕は東で働いている女中たちに全て任せて欲しいと申し出てきたらしい。何の確執も無い親子関係なら二つ返事で返すところだが、これには小十郎も警戒した。万が一のことを考えてだ。食事に毒を盛られたとあってはただでは済まない。
もともと、半数ずつ使用人を出す予定だったにも関わらず、向こうから手配りを変えてくることに小十郎は疑念しか沸かなかったのだ。首を縦に振らずにいると、義姫は何と言ったか…。小十郎はやり取りを思い出していた。
「義姫様は全て自身の配下で差配できなれば、給仕はすべて政宗様の使用人を起用して構わない。ただ、条件としてその中からこちらで指名させてほしい…と言われまして」
そんな馬鹿な話があるかと政宗は吐き捨てた。こちら側で給仕する女中をすべて用意できるに越したことはない。ただ、一方的に向こうの指名を受けるとなると、選ばれた女中たちは政宗に付き従っていても義姫と通じているやもしれない。と、政宗はまた気を揉まねばならない。一応は最悪の筋書きを頭に入れておかねばならないのだが、そんなものはまっぴらごめんだった。
「誰も彼も疑っちまう。勘弁してくれ」
「義姫様は政宗様のお考えも見越した上で、更に初穂殿を給仕の中に指名しておられます」
「はあ?初穂を?あいつは俺の隣に座らせる」
政宗の言葉に小十郎は渋い顔をしていた。政宗の身を案じるからこそ小十郎は政宗の隣に初穂を座らせたくはないのである。
小十郎は政宗を説得し始めた。初穂が、給仕の女中に加わればある意味厨の監視を任せられると踏んでいたのである。義姫の息の掛かった女中が、厨で何かしでかすかもしれないからだ。家臣らを警備と称して厨に配し目を光らせておくこともできるだろうが、適材適所、中の勝手を知っている初穂の方が目端もよく効くと思ったのだ。小十郎も政宗が心を許す彼女には信頼を置いている。だからこそ、小十郎は当日の女中の中に初穂を加えたいのだ。
「母上の案にお前も乗るってのか」
「そういう意味ではありません。御身を守るためです」
「ありがてえ事だが、自分の身くらい自分で守れる。ましてや城の中だぞ見くびんじゃねえ」
小十郎は悟られぬよう膝上の拳をきつく握りしめた。政宗は義姫のこととなると、融通が効かなくなる。悪感情がのたうち回るのか、冷静な判断に欠けてしまうことがあるのだ。小十郎が困った顔をしていると政宗はもういいと、腰を上げた。
「てめえと話ててもらちが空かねえな。直々に話しにいきゃいいんだろ」
そう言うと政宗は戸を力いっぱい引き、東の館へ出ていった。痛烈な戸の音に驚いた留守政景が何事かと慌てて部屋に訪れた。小十郎の困り果てた様子をみて彼もまた腕を組み、主の背をただただ見つめることしかできなかった。
濡れ縁を大きく踏み鳴らした政宗は、すれ違う義姫の侍女の静止を振り切るとすたんと乱暴に戸を開け実母の部屋にやってきた。そこには、中野宗時と小次郎が居た。三人で仲良く談笑中であったらしい。目を吊り上げ突然現れた政宗を小次郎はきょとんとした様子で見上げていた。
「兄上…?いかがなさいましたか…」
「いかがなさいましたか、だと?そりゃてめえが一番わかってんじゃねえのか」
そういった政宗は、敷居を跨がず廊下の板張りにどすと腰を下ろした。義姫と中野宗時をじっと睨みつけるが、二人は別段慌てる様子もない。義姫は着物の袖を片方の手で上品につまみ、楊枝で菓子を切り分け始めた。仮にも伊達家現当主たる政宗が出向いているにも関わらず、居すまいも正さず菓子を喰むに専念している。息子が訪ねてきても見向きもしない様子が政宗は気に入らない。宗時が義姫を諌めるようにわざとらしく名を呼ぶと、彼女は政宗の存在を今思い出したかのように楊枝を置いた。
「何用か?政宗」
「差配は予定通り進める約束だったはずです。今更…、女中を指名してくるなんざ…」
政宗の語調が徐々に険しいものになると、義姫は政宗の言葉に被せるようにして息をつまらせながら自身の言葉を連ねた。
「政宗…、母は悲しい…。その様に思うているとは。こうしてお主と最後の食事をという母の願いすら、叶えてはくれぬのか…」
義姫は袖を手繰り寄せると、口元を隠しうつむいた。その肩を宗時が甲斐甲斐しく支えている。彼女は役を作っているようにも思えたが、政宗は自分自身にも苛立ちを感じていた。母親のこととなるといつも歯止めをかけようにもついむきになる。これで最後だ、最後なのだと、必死に己に言い聞かせた政宗は悟られぬように大きく息を吸った。小十郎の忠告や助言はこれまで間違いだったことは無い。政宗は自分を戒めた。
「分かりました。母上の希望を受けます」
板張りに拳を付き軽く礼をした政宗はすぐにその場を離れ自室に戻った。
結局、八つ時は初穂に会えず仕舞いで夕餉を迎えていた。今は幾分か落ち着いたが、もしあの時会っていたなら気が立っていて初穂に何を言うか分からなかった。むしろ頭を冷やす時間が持てたことは結果良かったのかもしれない。
早々と陽は沈み行灯の明かりは緩く室内を灯した。食事を運んできた初穂は政宗に酌をすべく傍らに腰を下ろした。
「昼間は居なくて悪かったな」
「いいえ、片倉様よりうかがっていましたので」
そう言った初穂は微笑んだ。彼女の手にある銚子はゆっくりと政宗の猪口に酒を注いでいく。満たされ揺らぐ酒をひといきに飲み干すと初穂は目を見開いていた。煽るように飲み始めそうな政宗に初穂は優しく声を掛けた。
「政宗様、そう慌てずに」
「アンタに、話さにゃならねえ事がある」
政宗は、給仕の件を初穂に話した。給仕など本当は建前で、厨の監視などこんな大それたことを任されるにも関わらず随分と落ち着いて聞いている。
「アンタを信頼しているからこそ頼めることだ。今朝とは話が天と地くらい違うと思うだろうが」
「構いません。お側でお仕えできることには代わりありませんから。それに、少しだけ片倉様から話をうかがっておりました」
「あいつ…」
「決して片倉様を責めないで下さい。お部屋に一人いらっしゃったので私が問いただしたのです」
初穂が草餅を作り政宗の部屋を訪れた際、焦燥気味な小十郎が一人待っているのを疑問に思い、政宗の所在を聞いたのだという。そこである程度内容を聞いたのだった。
勝手をお許しくださいと手をつこうとする初穂を政宗は遮った。もう一つ猪口を手に取ると、初穂に差し出し政宗は初穂から銚子を奪うと顔の横で掲げる。初穂は頂戴しますと答えた。盃を交わし肴に舌鼓をうつと、初穂は猪口を置いて白い手を膝の上に乗せた。政宗には昼、ゆえの部屋で見たものを話さねばと思っていた。だが、いざ話そうとすると彼女を信じたい気持ちが大きく、うまく言葉が出てこない。初穂が神妙そうな顔をするので、政宗は顔を覗き込んだ。
「どうした。何かあんなら言ってみろ」
一度深呼吸をして初穂は以前小次郎と会った時に見た簪をゆえの部屋で偶然見つけてしまったことを告げた。その瞬間、ゆえを裏切ってしまったような罪悪感が押し寄せた。事実を伝えたことで彼女への疑念を一つ増やしてしまう。伝え終えた時酷く胸が苦しくなるようだった。
すると政宗は初穂の手に手を重ねた。顔を覗き込むと、隻眼は穏やかに初穂を捉えていた。
「思い詰めんな。事実は事実として今はただあればいい。判断はその時だ。いいな」
侍女が不届き者であるかもしれないというのに、政宗は初穂を決して責めはしない。更に政宗は握る手に力を込めた。
「先が怖いか。俺と一緒になるのは」
言葉はまっすぐに伝えられた。なのに初穂は苦しかった。
武家の家に生まれながらも初穂は家族をなくしてから長年その境遇を不幸に思っていた。親族同士の争いも、他家との衝突も、大内の家で数々の騒動を肌身に感じそれは益々のものとなっていた。ただ自分が小浜の皆を背負う立場になった時、初穂は彼らのためにできることがあるのだと初めてわかった。頼りにされたいし、皆の役に立ちたい。そう思い今この場にいられるのは、自ら背を見せ時に初穂とぶつかりながらも苦を共にした政宗が側に居たからだ。だが政宗は再び初穂を渦中に、表舞台に投じることをうかがっているのである。いつでも共に有りたいと思っているのに今政宗に気遣いをさせていることに初穂は心が痛い。
「政宗様、私は覚悟を決めています。武家の女としてのいろははまだまだ未熟ですが…。何があっても私はいつでも政宗様のお味方です。怖いなどとは思いません。ですから ──お側に置いてください」
初穂は絞り出すように言葉を紡いだ。顔は火のように熱い。手元に泳いでいた視線を戻すと、眼の前の主はいつもの自信家な政宗に戻っていた。重ねられていた手は初穂の頬に伸ばされる。お互いの呼吸を感じるまでの至近距離に心音が政宗に届いてしまうのではないかと思った。名前を呼ばれ視界が暗くなり、重ねられた唇に息をすることを忘れた。次第に深くなる口づけに胸が一杯になる。やっと離れたと思えば、政宗は初穂の背に腕を回し己の胸にきつく抱き寄せた。言葉はなくても良かった。初穂も応えて大きな背に腕を伸ばし、政宗は初穂の肩口に顔を埋めると首筋に口づけを落とした。「なぁ…」と艶を帯びた声で耳元で囁かれると初穂は瞬きする間にくるりと天井を向いていた。初穂を組み敷いた政宗は羽織を脱ぎ捨て、顔の横に手を付いた。政宗の輪郭を映し出した淡い光は初穂にも同じく届き、無防備で無垢な姿を政宗に焼き付けている。胸の前で両手を堅く握りしめる初穂の手に触れた政宗は、指を一本ずつ解いて手の平同士を合わせ握り合った。再び頬に、耳に、首筋に、鎖骨…と口づけを繰り返す。着物の合わせに手が掛かると初穂の肩が僅かに震えた。緊張しているのは手に取るようにわかったが政宗は構わず進めた。大きく襟が開けたところから初穂の白い肌が露わになる。政宗の中には独占欲の塊が頭をもたげていた。彼女の素肌に手を這わし膨らみに触れると細い声が切なげに漏れ益々煽られた。しきたりなど最早どうでも良くなっていた。互いに通じた瞬間をただただ繋ぎ止めておきたかった。二人は何度も互いの名を紡ぎながら溺れ、夜に意識を手放した。
・
政宗と義姫の会食当日は、朝早くから家臣たちが慌ただしかった。広間には親子の他には側近と招かれた者だけが同席を許され、時間が近づくにつれ招かれた者と多くの護衛が登城した。義姫の方からは、小次郎はもちろん、中野宗時とその付き人らしい浪人のような強面の人間が一人の計四人が招かれ、政宗には小十郎と、驚くべきことに成実が同席するとのことだ。前日までは、その場所には留守政景の名があった。それまで知らされていなかった出席者に初穂はいささか不安に思いながらも若干の安堵が混じっていた。政宗の成実のわだかまりは、解消されたのかもしれない。ただ、この会食の場に再び三傑が揃うというのは少々気にはなる。だが兎にも角にも初穂は己の役目を果たすことに集中しなければならなかった。
厨にはいつも見慣れた女中たちが手際よく品書き通りの料理を作っていく。煮物を任されていた初穂は、火の具合を見ながら時折周りの様子を伺っていた。今の所別段怪しい素振りをする人間は居らず、部外者が出入りすることも無い。毒見役の家臣も配膳前に口をつけるが全く問題ない。小十郎の心配が稀有であることを望むばかりである。
初穂は義姫の指名により配膳係も任されていた。緊張の面持ちで広間へ入ると、会話は少ないものの中の様子は至って普通だった。入り口より奥の上座に義姫が座り、その右隣から小次郎、宗時と続いている。対する政宗は手前側に座り、左手に小十郎、成実と座っていた。
漆の椀を膳に乗せた時、政宗と視線が交わった。大丈夫か、厨に変わりないかと、そう目が訴えているのがわかる。初穂は悟られぬように問題はありませんと品よく頭を下げ次々と配膳を済ませていく。無事にこの会食が終わることを祈るしか初穂はできない。
最後の煮物の器を配膳する初穂は、義姫に器を差し出すと彼女は「これはお主が?」とたずねた。「はい」とだけ告げると、義姫は「良い味じゃ」と微笑んだ。何故だか背筋の凍るような笑みのような気がして、初穂は思わず視線を反らした。
厨に戻るとどっと肩の荷が下り、疲れが押し寄せるようだった。厨の女中たちに目を配りながら調理をし配膳をするのは思いの外気が張っていたのは間違いない。一人の女中も同じく安堵の表情を浮かべ小上がりに腰掛けた。
「無事に終わりそうですね…。片付けもありますけど」
ふふと彼女が笑んだその時、広間の方が急に騒がしくなった。医者を呼べ、水を持て、帯を…、桶を…、と怒号が飛んでいる。厨に待機していた皆が皆、顔が青ざめていた。政宗に何かあったのではないか。初穂は居ても立ってもいられなかった。厨を飛び出そうとしたその時、血相を変えて成実が駆け込んできた。
「初穂ちゃん、今すぐ来て。まずいことになった」
「政宗様に何かあったのですか…!」
「あいつは大丈夫…」
その時、厨の戸口から威厳を携えた影が伸びた。成実の後ろには政宗が立っていたが、その後ろには義姫の護衛で登城した家臣たちが控えていた。ものものしい空気に、女中たちも身が竦んでいる。すると、後ろの家臣たちは政宗の脇を通り過ぎ、初穂の腕を乱暴に掴むと捻り上げ、おもむろに土間に押し付けた。政宗と成実はただ苦苦しい表情で初穂が捉えられる様子を見つめるだけだ。
「この女!よくも義姫様の膳に毒を…!」
浴びる罵声の意味が初穂には全く覚えがないし、訳がわからない。混乱しながら、政宗に助けを求めるが政宗はその場から動くこともなく、捕らえられた初穂が横切る間際、ただ一言だけ呟いた。
「初穂、待ってろ…。必ず迎えに行く…」
怒りを必死に押さえつけるような政宗の言葉を初穂はただ信じることしかできない。
連れ去られる初穂が「政宗様」と叫ぶその悲痛な声が政宗の脳裏にいつまでもこびりついていた。